【2026年3月テーマ】
気づかない不便に気づく
私たちは、
困っている人を探すのではなく、
まだ言葉になっていない“少しの不便”に
そっと目を向けます。
【今週のお話】

ジャズ喫茶のカウンターで、
小銭を渡すほんの数秒に、
少しだけ時間がかかっていた日の話です。
夕方。
店のランプが一段とやわらかく光る。
レコードはピアノに変わっている。
低い音が、木のカウンターに静かに広がる。
レジの前に、常連の男性が立つ。
「いつもの、ありがとう」
ポケットから小銭入れを出す。
ファスナーをゆっくり開ける。
指先で硬貨を探す。
五百円玉。
百円玉。
十円玉。
手のひらに乗せる。
一枚、ころん、と転がる。
カウンターの端で止まる。
「最近、つかみにくくてな」
笑いながら、そう言う。
受け皿は平らで、少し浅い。
硬貨が重なると、指先が迷う。
数日後。
カウンターの上に、
小さな木の受け皿が置かれた。
縁が少し高く、
底がゆるやかに丸くなっている。
目立たない。
けれど、触れると違いがわかる。
翌週。
同じように小銭を出す。
硬貨は皿の中央に集まり、
指が自然と一枚ずつ拾える。
転がらない。
探さなくていい。
「お、いいなこれ」
短いひとこと。
ピアノは変わらず流れている。
ランプの光も同じ。
変わったのは、
指先の迷いだけ。
ほんの少し整うだけで、
時間がやわらぐ。
急がせない。
焦らせない。
小さな不便が消えると、
その場の空気まで静かになる。
ジャズ喫茶の夜は、
今日もゆっくり深まっていく。
ちょっと整うだけで、毎日は軽くなる。
フジトモ島について
この物語はフィクションです。
けれど私たちは、現実の暮らしの中で
「ちょっと整える」仕事をしています。
